憲法記念日に「法の支配」を考える偶然、必然?
2026年5月3日憲法記念日の今日、日経朝刊に、高市外交の記事が掲載。
その見出しが「法の支配」維持をめざす、というもの。
⇒ 「法の支配」維持めざす 日本の新外交方針表明 「力の時代」同志国と対処 – 日本経済新聞
以前から、この「法の支配」という言葉に疑問を抱いており、いつか書きたいと思っていた。
今日、憲法記念日だということはたまたまのことだが、「法の支配」を考える日に。

高市首相も好んで使う「法の支配」
高市首相のベトナム訪問外遊、失敬、外交記事を要約するとこんな内容。
世界は今、軍事力だけでなく経済力も含めた「力の時代」に入りつつあり、
その中で日本は「法の支配」を掲げ、同志国との連携で対抗していくという構図。
ただし現実には、米国・中国・ロシアといった大国自身が、その「法」を都合よく使い分けているのだが。
だからこそ、日本は資源や供給網を含めた実務的な協力によって、
自律性と強靱性を高める必要がある。
というロジックだ。
ところで、この「資源確保」「供給網」という話は、昨日整理した内容とそのまま重なっており、
そのまま外交と直結しているという現実でもある。
「法の支配」とは
「法の支配」とは、本来、
人や権力ではなく、ルールに従って社会を運営・管理すべきという原則である。
ただし国際政治においては、
誰がそのルールを決め、誰が守らせるのかが曖昧なまま使われる言葉でもある。
だよね!?

法を支配する人、される人
では、「法を支配するのは誰で、法に支配されるのは誰なのか」。
そもそも「法」は絶対的なものではない。
法は、異なる解釈ができる。
法は、変えることができる。
法は、破られる。
法は、無視される。
こうしたことは、言うならば、このように日常茶飯事なのに、
平気で「法の支配」を訴え、守るもの、守るべきもの、守られるべきものと主張し、喧伝する。
一体誰に向かって、なにに向かって言っているのか。
耳にした者も、言われた本人も、ほぼ無感覚で聞いているか、聞き流しているか、そうだそうだと一応同意するフリをするか。
当然の事、という認識なのか、いちいち反論などしてはおれん、という感覚なのか。
こういう欺瞞に満ちた言葉や、言っておけばいいだろう的な言葉は、やはり長と名の付く人、本来責任がある人が使うことが多い。
そして「法の支配」を主張・強調する人は、それが一応取るべきポーズであることを感じている。
真の意味も理解しないまま。
そういう人たちに、私たちは「支配」されている。
法の下に。
怖い話だし、怖い社会である。
でも、みんな鈍感になっているので、揃って心配はしていないんだよね。
いや、そっちの方が、怖いか・・・。
みんな鈍感になってる、っていうことの方。


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